国指定重要文化財
正蓮寺大日堂
正蓮寺大日堂は元真言宗
高野山派仏起山普賢寺の本堂
大正8年|国指定重要文化財
正蓮寺大日堂の歴史と修理
正蓮寺大日堂は、かつて真言宗の普賢寺の本堂として使用されていました
普賢寺がいつ創建されたのかは分かりませんが、文明10年(1478)に再建されたことが記録に残っています
前身の大日堂の発掘
昭和30年から31年に行われた大修理の際、現在の大日堂の地下で発掘調査が行われました
そこで、鎌倉時代に建てられた前の大日堂の跡が見つかり、その大日堂が焼失していたことが分かりました
この焼失の原因は、鎌倉時代末から室町時代にかけて高市郡(現在の橿原市)が幕府軍と越智氏の多年にわたる戦火に巻き込まれていたためと考えられています
再建と修理
現在の大日堂は、康正2年(1456)に再建が始まり、文明10年(1478)に完成しました
小規模な建物でありながら、完成までに約30年かかりました
これは、応仁の乱など当時の社会不安を反映していると考えられています
その後、江戸時代には何度も修理が行われ、特に江戸時代初期には大きな修理が行われました
明治時代の変遷
明治時代の廃仏毀釈により、普賢寺は廃寺となり、大日堂も売却されました
しかし、その後、明治7年無住無檀廃寺願により金13円50銭で地元住民によって購入され、管理が続けられ、大正8年には、真宗興正派正蓮寺が大日堂の管理を引き継ぎました。
重要文化財に指定と修復
大日堂は、昭和18年に国の重要文化財に指定されましたが、長年の使用により状態が悪化していました。昭和30年から31年にかけて、約1年半の工事で大修復が行われ、当時の姿に復元されました。この修理には国や県からの補助があり、約1億8800万円の費用がかかりました
建物の構造
大日堂は、三間四方の小規模な建物で、前面の一間は礼堂、後方二間には本尊を祀る厨子が設けられています
屋根は瓦葺きで、寄棟造りとなっています

国指定重要文化財
大日如来坐像

大日如来は
大日堂の本尊である。
大日如来座像(国指定重要文化財)
大日堂の本尊である大日如来座像は、鎌倉時代前期に作られたとされています。この大日如来座像は頭に宝冠をかぶり、智拳印という手のひらを使った印を結んでいます
座っている姿は結跏趺坐(けっかふざ)という、足を組んで座る姿勢です。お顔は丸みを帯びて豊かな表情をしており、目は強く細められて刻まれています。全体的に肉付きが良く、衣服の模様は藤原式の薄手で優美です。
特徴と技術
この仏像は「半丈六」(約150cm)の大きさであり、技術的に非常に優れています
仏像を作ったのは、京都を中心に朝廷や貴族のために仏像を作った「院派」の仏師だと考えられています。鎌倉時代前期の橿原市と京都とのつながりを示す重要な作品とされています
重要文化財に指定
この大日如来座像は、大正8年(1919年)に国の重要文化財に指定されました。像は何度か修理されており、金箔が剥がれている部分もありますが、損傷はほとんどありません。ただし、宝冠、光背、台座は徳川時代に追加されたもので、オリジナルではないと考えられています。
修復
国指定重要文化財に指定されてより100年にあたる令和元年(2019年)に、文化庁による調査が行われました
その際、金箔が大きく剥がれていることが確認され、金箔の剥がれを防ぐために、令和2年(2020年)から10ヶ月間にわたり、公益財団法人美術院国宝修理所(奈良市)で修復が行われました
サイズ
檜材寄木造・総漆箔
像高148.3cm、面長26.8cm、面巾26.0cm、耳張34.2cm、面奥33.5cm、肘張80.0cm、胸厚32.2cm、腹厚39.5cm、膝高(左)21.8(右)21.3cm、膝張108.8cm、膝奥71.5cm
大日堂のご本尊である大日如来の例祭は毎年7月15日「大日さん」として営まれ境内には多くの夜店も出店し、地域の夏祭りとして多くの子どもたちで賑わいます



正蓮寺大日堂の御仏たち
二天像
正蓮寺大日堂須弥壇(仏壇)には四天王のうち持国天と多聞天が安置されています
持国天:像高 172.6cm / 多聞天:像高 171.6cm
平安時代後期作「二天像」
「二天像」は、持国天と多聞天の像で、これらは等身大の仏像で、樟(くすの木)を使って作られており、左右の木材を合わせる技法が特徴です
大日如来座像とは異なる作り方をしています。
二体のみの理由
この二天像が二体のみである理由として、もともとの仏壇(須弥壇)が狭く、四体の像を置くことができなかったため、持国天と多聞天の二体だけが選ばれたのではないかと考えられています
由来と考察
これらの像は後に他の寺院から持ち込まれた可能性があるとも言われています
大日如来座像に比べて、脇を守る二天像が少し大きいのは、そのためだと考えられています
調査と文化財指定
令和元年12月4日、奈良県の文化財保存課と関西大学、帝京大学の共同チームによる精密調査が行われました
その結果、この二天像は大日如来座像よりも古く、12世紀後半から末頃(平安時代後期)に作られたことが分かりました
これにより、奈良地方での天部像を考える上で非常に貴重な作品として注目され、文化財として指定される可能性が高いとされています

大師像
大師(空海)像と「お大師さん」
正蓮寺大日堂には、廃寺となった普賢寺の宗派・真言宗の開祖である弘法大師(空海)の像が安置されています
この像は、いつ作られたかははっきりしていませんが、弘法大師を祀るためのものです
毎年4月21日(旧暦3月21日)は弘法大師の命日で、この日には地元の女性たちが「お大師さん」と呼ばれる大師講(法要)を行っていました
この行事では、弘法大師像の前でみんなで飲み食いをしながらおしゃべりを楽しみ、楽しい集まりとなっていました
平成27年からは、小綱町文化財保存会がこの伝統行事を引き継ぎ、毎年4月21日に定例で開催しています

子安地蔵像
子安地蔵像と「地蔵さん」
正蓮寺大日堂には、いつ作られたかはわかりませんが、等身大で均整の取れた「子安地蔵像」が安置されています
この地蔵菩薩像は、八頭身の美しい姿をしています
毎年7月23日には「地蔵さん」という地蔵講が行われ、地元の女性たちが中心となって町内の子どもたちの健やかな成長を祈る法要が行われてきました
平成27年からは、小綱町文化財保存会がこの伝統行事を引き継ぎ、毎年行われています
地蔵菩薩は、「大地が命を育むように、苦しむ人々を大きな慈悲の心で包み込む」とされ、特に「子どもの守り神」として信仰されています

誕生仏
堂内には花御堂とともに誕生仏が安置されています
現在の正蓮寺大日堂は廃寺で一切の宗教行事は行っていませんが、真言宗普賢寺の全盛時代には毎年4月8日お釈迦様の誕生を祝う「灌仏会(かんぶつえ)」を開催して、花御堂に沢山の花を飾って甘茶をかけていたことでしょう
お釈迦様は、生まれるとすぐに7歩あるき、右手で天を左手で地を指して「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)と唱えられたといいます

地蔵像
堂内にはその他仏像が沢山安置されています
特質すべきは大変美しい地蔵様です
制作年代は不詳ですが、少し前屈みの姿勢のシルエットが美しく地元では「小綱町のビーナス」と呼んでいます

正蓮寺大日堂前の
観音さんの石仏
元普賢寺(現正蓮寺大日堂)は室生山八十八ヶ所霊場の
67番札所だった
重要文化財正蓮寺大日堂前にある観音さんの石仏(薬師如来像)は、いつ頃始まったのかは不明ですが、室生寺を起点として三重県の一部と奈良県の真言宗寺院八十八ヶ所を巡礼する霊場があったと云われています
これは四国八十八ヶ所巡礼に準じた霊場で元普賢寺(現正蓮寺大日堂)はその67番札所にありました
四国八十八箇所巡礼の67番札所は 小松尾山 不動光院 大興寺です


全国でも十数例しかない
猫が画かれた珍しい涅槃図
全国で10数例しかない珍しい「猫入り涅槃図」
涅槃図に猫が描かれることは、これまでほとんどありませんでした
その理由にはいくつかの説があり、「猫が釈迦の使いである鼠を食べたから」や、「猫は鼠にだまされて釈迦の死に間に合わなかったため、猫は干支にも入っていない」といったものがあります。さらに、「猫が木に引っかかった薬袋を取りに行こうとした鼠を邪魔したため、お釈迦様が薬を飲めずに亡くなった」といった話も伝えられています
しかし、絵師が自分の飼い猫をこっそり描いたり、依頼主が猫を描いてほしいとお願いしたため、猫が描かれた涅槃図も存在します。日本ではこのような涅槃図は十数例しか確認されていませんが、正蓮寺大日堂にある涅槃図には左下に猫が描かれており、非常に珍しいものです
この涅槃図は、延享3年(1746年)2月15日に、大和国十市郡豊田村(現在の橿原市豊田町)の吉村氏によって普賢寺(現正蓮寺大日堂)に寄進されたことが記録に残っています。地元の古老たちは、「小綱町には猫が描かれた涅槃図がある」と伝え、この絵を大切に保管してきました
現在、この涅槃図は正蓮寺大日堂資料室で見ることができます
その他の収蔵物
正蓮寺大日堂には、廃寺となった真言宗高野山派普賢寺から伝わった仏像や掛け軸などの寺宝が多く保存されています。具体的には、地蔵菩薩像、閻魔天像、弁天像、誕生仏、普賢寺の元住職の位牌や元檀家の位牌、昭和30年の御堂大修理時に発掘された土器や瓦類なども展示されています。

涅槃図のみどころ
- 満月の日に・川の畔で
お釈迦様の入滅と沙羅双樹
お釈迦様は、前478年頃の旧暦2月15日(現在の3月15日)の満月の日、インドのクシナガラ川のほとりにある八本の沙羅双樹の木の下で亡くなりました。この出来事を「涅槃に入る」と言います
お釈迦様に関連する木
無憂樹(むうじゅ):お釈迦様が生まれたときに咲いていた花
菩提樹(ぼだいじゅ):お釈迦様が悟りを開いた木
沙羅双樹(さらそうじゅ):お釈迦様が入滅された木
涅槃図には、左側に青々とした4本の沙羅双樹が描かれ、右側には白く色が変わった4本の沙羅双樹が描かれています。お釈迦様が亡くなると、右側の木の葉が白く変わり、白い花が咲き、花がハラハラと散ったと言われています
この表現は、お釈迦様が亡くなってもその教えは枯れずに続いていくことを意味しており、4本の木が枯れ、4本の木が栄えるということを「四枯四栄(しかれしえい)」と言います

- 横たわるお釈迦様
- お釈迦様の横たわり方「頭北面西右横臥」
お釈迦様は、沙羅双樹の木々の間で、頭を北に向け、西を顔に向けて横になられました
これは「頭北面西右横臥(とうほくめんせいうこうが)」と呼ばれています
お釈迦様は、大弟子である阿難に「私は疲れたので横になりたい」と言って、沙羅双樹の2本の木の間に、頭を北に向けて寝る床を整えさせました
そして、右脇を下にして、両足を重ねて横になられました
頭を北に向けて寝ることは、地球の磁場と血液の流れが調和し、最も安定した安らぎを得られるとされています。そのため、亡くなった方を北枕に寝かせることは、お釈迦様の涅槃に倣う意味があります

- お釈迦様の急を聞いてかけつける
摩耶夫人 - お釈迦様の母、摩耶夫人は、お釈迦様を生んで7日後に亡くなり、天界からお釈迦様のもとに駆けつけました。摩耶夫人を導いているのは、お釈迦様の十大弟子の一人、阿那律尊者です。また、お釈迦様の説法を聞いている時に居眠りしてしまった人物が描かれており、彼はそのことを恥じて、二度と眠らないと誓いました。
さらに、お釈迦様の母である摩耶夫人が天界から地上に降りてきて、薬袋を投げて息子を助けようとしましたが、それが届きませんでした。その薬袋をネズミが取ろうとしたものの、ネコが邪魔をしたという話が伝えられています。このエピソードが「投薬」という言葉の由来だとされています。

- お釈迦さまに触れる老女
嘆く弟子たち - お釈迦さまを囲んで大勢の弟子が取り囲んで嘆いている様子が描かれています
お釈迦さまの弟子のなかで、特に優れたといわれる10人の釈迦の十大弟子達です
お釈迦さまの脚元で悲しそうに嘆き、触れようとされている婦人は、お釈迦さまに乳粥を施したスジャーターという婦人といわれ、お釈迦様の乳母と云われています

- 卒倒している人
介抱する人 - お釈迦さまのお腹の真下あたりに卒倒して横たわっている人が十大弟子で最も多く教えを聞いた「多聞第一」の異名をもつ阿難尊者(あなんそんじゃ)です
彼は容姿端麗な人として描かれることが多く、涅槃図においていかに阿難尊者を 美しく描くのが絵師の腕の見せ所と云われており、ここ正蓮寺大日堂の涅槃図も阿難尊者が美男子に描かれています
卒倒した阿難尊者を介抱しているのが十大弟子の阿楼駄尊者(あなりつそんじゃ)です
多くの弟子たちが悲しみに暮れる中、阿楼駄尊者だけはお釈迦さまの入滅の意味をよく理解し、お釈迦さまの葬儀を営んだ際の中心的人物だったと云われています

- 唯一、供物を持っている人
- 卒倒している人の上あたりに黒い鉢のような、唯一供物を持った人物が描かれています
お釈迦さまは「私は鍛冶屋子の純陀(じゅんだ)の食事によって寿命を迎えることができたといわれ、臨終の前に食事を捧げることは最も尊い行いなのだ」と諭したと云われています
お釈迦さまは純陀を責めることはせず、最も尊い行いなのだと褒め称えました

- 迦陵頻伽(かりょうびんが)
- 獅子の上部に描かれているのは、不思議な女性のような絵で、実は上半身が人間、下半身が鳥の形をした仏教の想像上の生き物です
この生き物は「迦陵頻伽(かりょうびんが)」と呼ばれ、極楽浄土に住んでいるとされ、鳴き声が美しく、優雅に舞う鳥だと伝えられています。
「迦陵頻伽」は仏教の経典『阿弥陀経』にも登場し、あの世にはこのような美しい鳥が飛んでいるとされています。また、雅楽の舞には「かりょうびん」という名前の舞があり、鳥の羽を背負った子どもたちが優雅に舞う様子が描かれています。正蓮寺大日堂でも、この舞を奉納したことがあります

- たくさんの動物の中に、
猫が描かれています - 涅槃図には牛、ヘビ、羊、鳥など多くの動物たちが集まり、お釈迦様の死を悲しんでいます
お釈迦様がインドで亡くなられたため、象やラクダも一緒に悲しんでいます
その中で、正蓮寺大日堂の涅槃図には猫が左下に小さく描かれています
この「猫入り涅槃図」は約275年前に当時の檀家から寄贈され、年に一度のお釈迦様の涅槃会法要の日にのみ掛けられていました
廃寺となった後は長い間、掛けられることがなく、現在も美しく保たれています

- 薬袋と猫と鼠の関係
- 涅槃図に猫が描かれない理由は、お釈迦様の薬袋を取りに行こうとした鼠が猫に邪魔されたため、薬を飲めずに亡くなったという伝説があります
また、鼠が牛に乗ってお釈迦様の元へ向かう途中、猫が寝ていたため、鼠は猫を避けたとも言われています
全国に十数例しかない涅槃図の中で、正蓮寺大日堂の「猫入り涅槃図」は珍しいものです
猫が描かれた理由は、絵師が猫を好きだったか、当時の檀家が猫を描くよう依頼したためだと考えられています

昭和30年~31年の大修理

昭和30年~31年
当時修理工事費約798万円(現在の時価で約1億8800万円)
国・県・市の補助金を仰ぎ約1割の2,000万円を地元住民が親戚縁者を駆けずり回って負担して修復されました
令和の重要文化財
大日如来座像の大修理

令和2年、国指定重要文化財の指定から100年を経過し、国・県・市の検査の結果、金箔の剥落が激しい為、公益財団法人美術院国宝修理所(奈良国立博物館内)で約10ヶ月の修復期間を経て、小綱町にお帰りくださいました
雅楽奉納

正蓮寺大日堂では、修復工事が完了した後、「雅楽奉納」を行いました
平成26年10月13日に、奈良葛城楽雅遊会(奈良県御所市)の協力を得て、重要文化財である正蓮寺大日堂の整備工事完了を記念して「迦陵頻」と「蘭陵王」を奉納しました
また、令和4年5月8日には、重要文化財の大日如来座像の修復後に、「蘇利古」と「蘭陵王」が奉納されました






入鹿神社・正蓮寺大日堂の四季
境内には、四季折々の草木や花々が鮮やかに、不定期でのライトアップや祭事になど、小さな無住の寺社ではありますが、地元の方はもちろん、遠方からもたくさんの皆さまに有り難くご来訪頂いています
正蓮寺大日堂授与品
境内に御朱印申込書を設置しています
保存会活動日やイベント当日(お知らせに掲載/予約不要)には内覧、御朱印揮毫等に対応させて頂いています





