全国で唯一、
蘇我入鹿公をお祀りする神社
橿原市指定文化財
入鹿神社本殿
昭和55年|橿原市指定文化財
入鹿神社について
入鹿神社は、かつて真言宗高野山派の普賢寺(現・正蓮寺大日堂)の鎮守社だったと伝えられており、普賢寺の東南部の一段高い場所に、西向きに建っています
その鳥居は、蘇我氏の始祖地とされる曽我町(現在の蘇我)に向いています
祭神と由来
入鹿神社の祭神は、素盞鳴尊(すさのおのみこと)と蘇我入鹿大臣の2柱を合祀しています
本殿には、蘇我入鹿の木造坐像が安置されています
橿原市周辺は蘇我氏ゆかりの地で、小綱町の隣には曽我町という地名が残り、蘇我馬子が創建した宗我都比古神社もあります
この地域には「入鹿神社周辺に蘇我入鹿の母が住んだ館があった」「入鹿の母がこの地の出身だった」という説もあります
社名変更の経緯
明治22年、橿原神宮が近くに造営された際、政府は皇国史観に基づき、「逆臣」である蘇我入鹿を神として祀るのは不都合とし、祭神を素盞鳴尊に限定し、社名を地名から「小綱神社」に改めるよう求めました
しかし、地元の人々はこれを拒み、現在の入鹿神社の姿が守られています
地元と蘇我入鹿の関わり
日本書紀では「蘇我氏は逆臣」とされていますが、地元では蘇我入鹿公を「学問の神」や「病気平癒の神」として長年崇敬してきました
乙巳の変(645年)、蘇我入鹿は飛鳥板蓋宮で中大兄皇子らに暗殺されましたが、その聡明さから「学業成就の神様」として信仰されています
また、入鹿神社は「首の上の病に効く神様」としても知られ、地元の方をはじめ、全国から参拝者が訪れています
橿原市指定文化財 入鹿神社の本殿について
入鹿神社の本殿は、一間社春日造(いっけんしゃかすがづくり)という様式で建てられています
- 構造:丸い柱(丸柱)を用い、柱の上に三斗(みつます)を組んでいます
- 装飾:背面を除いた頭貫(かしらぬき)と桁間(けたま)には、中世風の蟇股(かえるまた)が施され、中央の蟇股には丹精に彩色された美しい彫刻があります
- 屋根:桧皮葺(ひわだぶき)で覆われており、棟には箱棟(はこむね)と呼ばれる構造の上に千木(ちぎ)や鰹木(かつおぎ)が取り付けられています
- 時代:江戸時代初期に建てられたもので、全体として室町時代の風格を感じさせる建築物です
この本殿は、昭和55年(1980年)3月17日に橿原市の指定文化財となりました
修理の歴史
本殿は大正2年(1913年)6月に一部修理が行われましたが、老朽化が進んだため、昭和61年(1986年)に解体修理が実施されました


入鹿伝説
蘇我入鹿にまつわる小綱の言い伝え
蘇我入鹿が鶏の鳴き声を合図に首をはねられたことから、小綱には次のような言い伝えがあります
- 小綱では「鶏を飼わなかった」
- 小綱で生まれた人が、中臣鎌足を祀る多武峯(談山神社)に参拝すると腹痛を起こす
- 明日香村小原が中臣鎌足の母の出生地であることから、「小綱と小原の人々は縁組みしない」
乙巳の変と蘇我入鹿の首伝説
645年6月12日の乙巳の変で、蘇我入鹿は飛鳥板蓋宮にて中大兄皇子らに暗殺されました。その様子は談山神社の「多武峰縁起絵巻」に描かれ、入鹿の首が切り落とされ宙に舞う場面が表現されています
奈良県内には「蘇我入鹿の首」にまつわる様々な伝説がありますが、入鹿神社に首が飛んできたという伝承は地元にはありません
蘇我入鹿の首伝説
日本書紀には首を切断したとの記述はないが、下記の各地に蘇我入鹿の首伝承が残っていますが、入鹿神社に入鹿公の首が飛んだと言う伝えはありません。
中臣鎌足に討たれた蘇我入鹿の首は、現在の橿原市曽我町の東端「首落橋」の付近にある家のあたりに落ちたと云われ、その家を「オッタや」と地元では呼んでいます。かってはその家の横を小川が流れ、「首落ち橋」と呼ばれた橋があったというが今は確認するのは難しい。
蘇我入鹿の首が落ちたから「オッタや」又は「オッテ屋」・「おって家」「オット屋」とも云われています。
また、橿原市曽我町には、蘇我一族の居館があったと言われ、蘇我馬子が創建した始祖を祀る神社「宗我宗我比古神社」が鎮座しています。
乙日の変(645年6月12日)に)飛鳥板蓋宮で切られた蘇我入鹿の首が飛鳥寺のあたりまで飛んで来たという伝説があります。飛んできた蘇我入鹿の首が執拗に中臣鎌足を追い回そうとするので、供養のために建てたと云われています。中臣鎌足は多武峰まで逃げたと言う説もあり、この蘇我入鹿の首の付近は飛鳥時代に「槻の木(つきのき=ケヤキの古名)の広場」があったとされる場所で、中臣鎌足と中大兄皇子が蹴鞠の会で初めて出会った場所であると伝わっています。
この二人によって仕組まれたクーデターによって蘇我蘇我入鹿が殺され、その首が飛鳥寺に飛んできたと云われています。
「茂古森(もうこのもり)」
その後も蘇我入鹿の首は執拗に中臣鎌足を追い回し、石舞台古墳から冬野川に沿って東に向かう細川谷の奥に上(かむら)という集落があり、その地の「もうこの森」の気都和(きわつき)神社付近まで中臣鎌足を追いかけ回したという伝承があります。
この変わった地名は、乙巳の変(645年6月12日)で殺害した蘇我入鹿の首に追われて、中臣鎌足がここまで逃げ込み「もう追ってこぬだろう」言ったことに由来すると云われています。
力尽きたか、ホッと胸をなで下ろしたのか、中臣鎌足が腰掛けたという石が境内の手水舎横に残されています。
中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿討伐をたくらむ密談をしたという故事より、別名・山(かたらいやま)と呼ばれる桜井市多武峰の談山神社。
蘇我入鹿の首が落ちた場所は談山神社の上手(かみて)とされ、二人を恨む蘇我入鹿の執念の深さを表すように、首が落ちた夜は天地が大いに荒れたと云われています。
蘇我入鹿の首が飛んだ場所は、奈良県内にとどまらず、三重県松阪市飯高町舟戸には、蘇我入鹿の首と呼ばれている五輪塔があります。
一説には、高見山まで飛んできた蘇我入鹿の首が力尽きて落ちてきたのを祀ったのが、その五輪塔だと云われます。
地元には面白い伝承が残っています。高見山に登るときには「中臣鎌足を思い出すから」と鎌を持って登ることは戒められており、もし戒めを破ぶって「鎌を持っていくと必ずケガをする」「五輪塔に詣でると頭痛が治る」など云われています。
また、近くにある「能化庵」には、蘇我入鹿亡き後、妻と娘が尼になって霊を弔ったという寺院跡が残っています。
全国で唯一蘇我入鹿公をお祀りする神社
橿原市曽我町のすぐ隣の小綱町には、入鹿神社があります。
その昔、このあたりは飛鳥時代蘇我一族の領地で、蘇我入鹿の母が身を寄せた家があって、蘇我入鹿はそこで育てられたとも云われています。
全国で唯一蘇我入鹿公をお祀りする神社として全国からお詣りが絶えません。
地元は昔から蘇我入鹿びいきの土地柄で、昔は中臣鎌足を祀る談山神社にはお参りしなかったと云われています。
尚、入鹿神社に蘇我入の首が飛んできたという史実は地元には無いようです。

拝殿の板絵
入鹿神社の拝殿にある引き戸には、随身(ずいじん)の絵が描かれています
この絵がいつ頃の作品かは分かっていません
随身とは、平安時代以降、貴族が外出する際に護衛として従った近衛府(このえふ)の官人のことです
また、神社では左右の神門に守護神として一対の石像で安置されるのが一般的です
しかし入鹿神社では、石像ではなく引き戸に板絵として描かれている点が特徴です

小詞(4社)
入鹿神社の本殿の横には、稲荷神社、八幡神社、秋葉神社の3つの神社があり、境内の堀の中には弁天神社が祀られています。
これらの神社は、昔、小綱町にあった「講」という集まりにより祀られたと考えられています。現在は無くなりましたが、当時は地域の人々にとって大切な信仰の対象でした
- 稲荷神社は、もともと穀物の豊作を願う神様でしたが、江戸時代後期からは商売繁盛や家内安全を願う神様としても信仰されています
- 八幡神社の祭神は応神天皇で、特に源氏の氏神として、武家の間で「武運の神」として信仰されました
- 秋葉神社の祭神は火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)で、火事を防ぐ神様として信仰されています
- 弁天神社は水の神様で、昔は特に農家の人々に信仰されていました。今では、財運や芸術、学問など、多くのご利益を授かる神様として信仰されています。弁天神社は水辺に祀られることが多い神様で、小綱町でも他の3社とは別に堀の中に祀られています
また、大正時代の大干ばつの際、弁天神社前で村の人々が雨乞いのために松明を灯し、畦道を駆け回ったという伝説があります

手水鉢と盃状穴
入鹿神社の鳥居の西にある手水鉢(ちょうずばち)には、不思議な形の窪みが彫られています。この窪みは「盃状穴(はいじょうけつ)」と呼ばれ、神社やお寺の灯篭や手水鉢に見られるものです
盃状穴には、五穀豊穣(ごこくほうじょう)や安産、子宝を願う意味が込められているとされていますが、正確な理由や意味はまだはっきりしていない部分も多いです。また、今でも病気の治癒や子宝を願って信仰されています
「盃状穴」は日本だけでなく、世界の遺産にも見られるもので、縄文時代から存在していたと考えられています。特に鎌倉時代以降は、お寺や神社の石に多く刻まれるようになりました
入鹿神社・正蓮寺大日堂の四季
境内には、四季折々の草木や花々が鮮やかに、不定期でのライトアップや祭事になど、小さな無住の寺社ではありますが、地元の方はもちろん、遠方からもたくさんの皆さまに有り難くご来訪頂いています

入鹿神社 授与品
境内に御朱印申込書を設置しています
保存会活動日やイベント当日(お知らせに掲載/予約不要)には内覧、御朱印揮毫等に対応させて頂いています




